カテゴリー : 星置

星置緑地メム

星置緑地メム

水辺で見ることができる爽やかな春を探しに、手稲区の星置緑地にいってきました。このブログのメインテーマである河川とは少しはずれているようにみえますが、土地に現れる水はすべて川に吸収されると思いますし、このメム(湧水池)も河川へのつながりを探す探索もおこなっていますので、ご容赦を。

まずは、星置緑地の散策を。

今年は雪解けが早く写真のように水芭蕉が例年より1~2週間早く咲き始めました。ほかにも、

エゾノリュウキンカ

エゾノリュウキンカ

キクザキイチゲ

キクザキイチゲ

なんかも咲いていて、目を楽しませてくれます。

ここはアスファルトで覆われた星置の市街区の中ぽつんと残った湿地帯で、街区化の波を逃れた不思議な場所なのです。1916年の地図をみてみると、函館線沿いのこの区域は稲作地の記号がかかれていました。きっと田んぼのあぜと線路の間のちょっとした沼だったのでしょう。

この湿地には木道が渡されていて湿地に咲くいろいろな花を眺めることをできるようになっています。

星置緑地のマスコットのかも

星置緑地のマスコットのかも

湿地の中には人なれをしたかものつがいが仲良くのんびり浮いています。

では、この湿地の水源はというと、

星置メム

星置メム

このような湧水が湿地に点在し染み出しているのです。

こういった場所をアイヌ語ではメムとよんでいて、札幌市内のいたる場所にあったようです。

ここ星置緑地の場合は、手稲山から流れ出るが作り上げた星置(複合)扇状地の末端の下に位置しています。扇状地を形成する砂礫は函館本線の上の崖で終りその下からは砂泥が堆積する地帯になります。それは線路横の乾いた土を見ると納得ができるほど目に見て明らかです。扇状地砂礫の地下にしみこんだ各河川や沢の水がいきなり標高の低くなる砂泥地区に当たると、地下水位は当然高くなり、おまけに目の細かい砂泥地になるので、堆積の状態によっては地下水が行き場を失って地表に出てきて湿地を形成したのです。

特にこの星置緑地に代表される星置地区はこのような湧水が沢山あったそうです。もしかしたら手稲の由来、湿った場所の意味の「テイネ・イ」というアイヌ語はここをさしていたのかもしれない。なんて説が、札幌市の博物館交流誌「ミューズレター」2013年12月 通巻55号 の十区十色のコラムにかかれていました。(こちらから参照できます

で、ここから探訪です。

水があるからには、その水は地表・地下問わずどこかにながれだしてくものです。そうでなければ水があふれかえるですからね。では、星置緑地のヘリを歩いてみると、北西のかどにこんな出口らしい場所をみつけました。

星置緑地メムの出口?

星置緑地メムの出口?

流下方向はあきらかに星置緑地の外にながれでていました。

では、この水はどこにいくのだろう??

耳を澄ましてみても、近くにマンホールやくぼ地がないかを探してみても、イマイチ判明できません。そこで

地図をみてみます。


大きな地図を表示

2ブロック北上した場所に水路の表示がありました。この水路、地図でたどってみると、とであって、直線的そのまま今度はとなっていました。

手稲土巧川は地図上は濁川の右岸からスタートしているのでもしかしたら、この水路、手稲土巧川の起点でもあるかも知れないっていう期待ももてました。

暗渠が開渠として地表に顔をだしてきているところがスタートかとおもっていました。ところが、いってみると地図でスタートとなる水路左端は見事にドンツキでした。そして、ちょっと川の中をみてみると、

星置排水川

星置排水川(仮名)

コンクリ三面護岸の川底の真ん中にちょっとした裂け目から水が湧きだしていました。

お??

もしかして、ここもメムなの???

真相は調べていなので、わかりませんが、ご覧のように透明感のある水が湧いているのは、まぎれもない事実です。周りを見渡しても暗渠っぽいマンホールやくぼ地も見当たらないし、ポンプの音もきこえません。凄く不思議です。今の私の知識だとこれ以上の真相はえられないので、この川の終点まであるいてみることにします。この時点では、この川はきっと手稲土巧川の一部であるという確信をもっていました。

川は、三面護岸の定規でひいたようにまっすぐと進んでいきます。

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進むにつれて付近の排水が流れ込みどんどん水の色が白濁色になっていきます。三面護岸の水路なので浄化作用は期待できませんのでしょうがないのかなとおもいます。

そんな川の色をみつつ、星置駅前通りを過ぎ、濁川との出合いまでいって愕然としました。

濁川と星置排水川(仮名)

濁川と星置排水川(仮名)

いままで歩いてきた水路はしっかりと濁川と合流をしているのですが、期待をしていた手稲土巧川の取水口がどこにもみあたらないのです。

どういうこと???

この事実だけで判断をすると、いままで歩いてきた水路は手稲土巧川とはまったく関係のない存在なのです。手稲土巧川はというと、暗渠の中で数百mうごめいて曙西緑地を過ぎたあたりで地表に顔をだすのです。曙西緑地下は明らかに暗渠跡なのですが、そこより西側からここまでは暗渠風の場所はまったくみあたりませんでした。

手稲土巧川とまったく関係のないこの水路、きっと正式名称はあるのでしゅうが、帰ってきてからインターネットを調べてみても、まったくヒットしません。

では、ではってことで、

ひらきなおって、ここでの紹介名として星置排水川(仮)と名づけておきました。

なにかの機会でこの水路の正式名称がわかったら改めて紹介をしようとおもいます。

 

撮影場所 北海道札幌市手稲区 星置緑地
アプローチ難度 ★☆☆☆☆
景観 ★★★☆☆
撮影機材  NIKON D3000

星置旧川道を歩く 星観緑地から星置南4丁目

星置川旧川道を歩く

ここ最近4エントリーは星観緑地近辺の川の合流点を掲載してきましたが、今回のエントリーはその締めくくりです。この星観緑地の西縁は札幌市と小樽市の境界となっています。市区町村の境界ってのは概して川の跡であることが多く、この小樽・札幌間の境界も間違いなくの旧流路であることが、今昔MAPの1916年の地図を見ても確認とれました。


そこで、折角なので、歩いてみようとバウと一緒にでかけていたのでした。

そのGPSの記録を下記にしるします。

では、歩行記をスタートします。

スタート

スタート

スタートは、起点の対岸からです。境界なので、写真にも少しうつっていますが、境界を示す紅白のポールがたっていましたので、そこを目印に歩いていきます。小樽側は行き捨て場になっていて、うずたかく雪がつまれていましたが、札幌側はすっかり雪が消えて畑の準備が始まりそうな感じでした。

星観緑地入り口

星観緑地入り口

そこから畑の縁沿いに歩くと、下手稲通りにぶつかり、星観緑地へと入っていきます。小樽側に目を向けると、であろうくぼ地も目にはいります。

ポンナイ川との境

ポンナイ川との境

この写真でみると左側に伸びるくぼ地が星置川の旧流路で右側のコンクリの構造物の先がポンナイ川の流路になります。

進行方向はもちろん、星観緑地の中へなのですが、この緑地の縁はちょっとした林になっており、融雪直後のため緑地の境界をしめる木の塀は所々倒れています。きっとこれから公園管理の人たちがいろいろと整備をしていくのでしょうね。景観的には殺伐とした景観がつづきます。ただ、この時期は藪はそだっていないので、苦労せず歩みを進めることができます。所々にイタドリが倒木のように地面に覆いかぶさっている場所もありましたので、そのあたりは少しだけ歩くのは難儀でした。

 

IMG_1919IMG_1924

この星観緑地の縁にはご覧のように塀と排水溝が終始ガイドのように存在しているので、これにそうように緑地内を散歩していきます。この散歩の間早めの時間でもあったので、緑地内では人に合うことはありませんでしたが、もし他の人が私たちの歩いている姿をみたら、なんて物好きなやつが歩いているんだと、おもったことでしょう。林の中に春をすこしずつ感じながら緑地内を縦断すると、今度は、ほしみ駅前通りにつきあたります。そこで撮ったのがTOPの写真になります。写真に写っている川はです。キライチ川はここからJRの線路を越えるまでは、星置川の旧流路をたどっています。境界線は鉄橋を渡ったあたりで、東南の方向に進んでいます。と、言うことは星置川とキライチ川の旧合流点は丁度鉄橋の下辺りだったのではという想像がつきます。

このキライチ側の堤防をたどって線路の向こう側にでようと、当初は計画していたのですが、どうやら堤防は線路下をくぐっていません。これはしょうがないと一旦GPSのトラックを止め、迂回をしていきます。線路の反対側には星観緑地はないので、あとは地図を見ながら境界線をたどることとなります。

線路の反対側にでたあたりで地図をたよりにをみまわしてみると、

良い感じの土管

良い感じの土管

排水溝が良い感じの土管を通ってキライチ川に流れ込むポイントを発見しました。川の跡って言うのはなにやら法律で構造物の建造が規制されていると読んだ覚えがあります。きっとこの排水溝にそって歩けばとしっかりとしたログがとれるのではと、トラックログを再開いたしました。

ちょうどほしみ駅を見渡せるポイントまででたので、撮り鉄をしながら、

ほしみ駅

ほしみ駅

東側をみてみると、良い感じに屈曲した道を見つけることができました。

DSC_0017DSC_0018

しっかりと排水溝もあり、これはあきらかに境界線であり星置川の旧流路であることがわかります。

写真にもうつっていますが、どうやら私有地を示すロープが木にそってはっていました。その左の小さな土手の上にはアルミの柵もみることができます。でもその柵とロープの合間は共有地になるのでしょう。ということでこのルートは土手の傾斜を通っていきます。星観緑地内もそうでしたが、今回の星置川の探索ルートはなかなかアドベンチャーなルートだなと思いながらこの土手を通りすぎると。

DSC_0020

ほしみ駅への道路にでてきます。この道路の反対側をみてみるとまた良い感じでどうろが湾曲しています。これはあきらかに川の跡の道ではないでしょうか。うきうきしちゃいますね。

道の両側は民地なのでしょうから不法侵入にならないように道路の真ん中をしっかりと歩いてゆくと、星置川の堤防がみえてきます。

DSC_0021

川跡らしき平地を探しGPSトラックを作っていこうと歩き星置川の堤防に上りゴールとしました。

DSC_0023

堤防に上がってから国道5号線方面に目をむけ星置川の上流をみてみると、星置川が谷間を作ってながれてくるのが見る事ができます。

あの谷間あたりが星置扇状地の始まりになるのでしょう。きっと昔のアイヌはこの先を川に沿いながら手稲山へのぼっていったのかなと、おもいつつ帰路についたのでした。

撮影場所 北海道札幌市手稲区星置 星観緑地~星置南4丁目
アプローチ難度 ★★☆☆☆
景観 ★☆☆☆☆
撮影機材 NIKON D3000 / CANON EOS X2

星置川とキライチ川の合流点

星置川とキライチ川の合流点

手稲区の西端(札幌市の西端)の星観緑地名物の星流橋の下で合流するのは、です。

この両河川、奥に写っているキライチ川は一部星置川の旧流路をつかっているのです。それ以前はもう少し南下した、現在のの起点あたりで星置川と合流をしていたのことが1916年の地図に記載がされていました。

札幌市最西端の星観緑地周辺一帯は明治後期から大正、昭和初期までは一帯が稲作地だったようで、星置川の排水・治水効果もあり、かなり盛んだったようですが、元々が砂丘の上にあったこの土地を農地化してくのは並大抵の苦労ではなかったとの記録も残っています。そこまで苦労した星置の農耕なのですが、減反などの生産調整のあおりを受けて現在農耕地はそれほどのこっておらず、工場や倉庫郡にその土地の利用方法をかえており、そんな工場・倉庫郡の中にこの星観緑地が緑のオアシスのように、かまえているのです。

地図をみていただけるとわかるようにこの星観緑地、結構な面積を誇っています。札幌市の広めの緑地や公園は雪が積もっている冬季でも割としっかりと整備されているようで、冬の間でも散歩などで利用する人たちが多いようです。この写真を撮影した日もかなりな数の人たちが散歩をたのしんでいました。

そんな中で、カメラを構えて写真をとっていた私は一帯どのようにうつっていたのでしょうか、、、。まぁバウもつれていたので、犬バカが写真を撮っているのだろうってな感じで見られていたぐらいでしょうか。

撮影場所 北海道札幌市手稲区星置 星流橋
アプローチ難度 ★☆☆☆☆
景観 ★☆☆☆☆
撮影機材 NIKON D3000

谷地川起点

谷地川起点

写真にはの標識がありますが、今回のエントリーはその土手の向こう、林の中にあるの起点ということで、星連橋橋におとずれました。

記載されている資料もなく、OPENSTREETMAPでの表記しかこの名前をみることができませんでした。

大きな地図を表示

そして、この谷地川、1916年の今昔MAPをみてみると

開拓期に整備された、新川と呼ばれた人口河川の名残であることがわかります。

下流にすこしだけ進むと、現在はとしてその形をとどめている銭函・花畔間運河があります。

この狭い範囲にの流れを銭函方面に流す二つの人口河川、なかなか興味深いです。

推察をしてみることにしましょう。

星置川は、手稲山あたりに流れを発し、付近の沢を集め扇状地を形作る中規模な河川です。その流量は雨量などにも関係してくるでしょうが、豊富な流れをもっていたと考えられます。そんな星置川の水を利用し、計画だてられた銭函・花畔運河、特に新川から手稲よりは、とよばれており石狩方面のよりも水量が豊富であり舟運の要を充分にになっていたとの記述もありました。これは、逆をかえしてみると、大雨や、融雪期には必要以上の水が運河に流れ込んでくるリスクもあったということではないでしょうか。運河というからには常に一定量の水かさであることがのぞまれるはずです。そんな宿命を持つ運河の水量を調整するために、この新川(現谷地川)は同時に開削されていったのではないでしょうか。当時の地図をみてみると、山口運河と、谷地川は銭函市街の東端で合流をし日本海にながれこんでいます。さらにこの星置新川の開削によって、付近の排水・利水への貢献が非常に高く、河畔一体は稲作地として農地利用が進んでいったとの記述をどこかでみたこともありますし、実際今昔MAPをみるとこのあたり一帯が稲作地記号で占められていることも見て取れます。

インターネットで星置川の変遷を調べてみると、ポンナイ川を先代の星置川の流路であるとの記述が大勢をしめていますが、私としては、ポンナイ川は銭函・花畔運河の名残であり、こちらの谷地川こそが星置川の先代の流路であるという説を推したいとおもいます。

撮影場所 北海道札幌市手稲区星置 星連橋
アプローチ難度 ★☆☆☆☆
景観 ★☆☆☆☆
撮影機材 NIKON D3000

清川起点

清川起点

まったく水もなければ、川らしい筋もなにもない空き地のようにみえますが、こここそがその昔が右に湾曲して現在の河口あたりまでながれていった、の起点となる場所なのです。グーグルマップでは川筋も描画されていますが、実際の現地はこんなものです。

清川は、その昔オタナイ川(小樽内川)アイヌ語で砂浜を流れる川ともよばれていて、その通り砂浜を東進していったのでしょう。そのころの絵図が、こちらのページに掲載されていましたので、ご覧になってみてください。

ところで、河口に砂浜を持つ河川は規模の大小を問わずかなり高い割合でそれまでの流れからは考えられないような湾曲をし蛇のように砂浜をよこぎり海に流れ込みます。私がいった中でも、がそれにあたります。今回の星置川や、前述の新川のように砂浜を持つけども汽水域から河口までも人の手によって流路を決定されている河川は直線的に海に入り込みますが、そうでない場合は前述のような形で海に流れ込みます。川によって運ばれてきた土砂が堆積をし、海の波によって削られ、それでも河川の水は流れてくる。その三者のせめぎあいの結果がこのような流路になっていったのでしょう。実際この星置のここらへんの地域の土壌は昔は石狩砂丘の一部であったようで、現在もここの土を踏んで歩いてみると、白石・厚別の泥炭の重い反発が返ってくるような土とも、南区の硬い反発が返ってくる岩盤の上や、そこに覆いかぶさる腐葉土のクッションのような反発とも違う歩き心地がしました。

この浜で漁をし、星置の扇状地で狩りを営み、手稲山に登り神に供物をささげていたこの地のアイヌは、手稲山から流れ落ちる星置川を滝のある上流部をソウシオキ、砂浜を流れるこのあたりからをオタナイとよんでおりそれぞれに別の物としてとらえていたのも、この地を歩き大地から足へと返ってくる心地を感じてみるとうなずける命名の仕方です。

そんなことを思いながら次の場所へと歩みをすすめたのでした。

 

 

 

撮影場所 北海道札幌市手稲区星置 星函橋そば
アプローチ難度 ★☆☆☆☆
景観 ★☆☆☆☆
撮影機材 NIKON D3000

星置川と山口運河・ポンナイ川の分流点

星置川と山口運河・ポンナイ川の分流点

今回訪れたこの場所、札幌・小樽・石狩の地史上かなり重要なポイントの地点なのですが、それなのに、この閑散っぷりと景観の残念っぷり、、、、1周まわらないとその深みがわからないマニアックな秘境感たっぷりの場所なのです。

ここはどこかというと、札幌の西端手稲区星置と、小樽の東端銭函の境を流れるにかかる星函橋付近の、
へとその水をわける地点なのです。

まずは、いつもの通り今昔MAPさんで1916年の地図を、、

まずは、中央を流れる星置川。

現在はこのまま直線的に北上し、ドリームビーチと銭函サンセットビーチを分かちつつ河口を形成しているのですが、以前は、この地点でポンナイ川の川道ともう少しだけ上流の現在の谷地川の流路をたどって銭函の市街地で河口をつくっていました。それは、1916年の地図の「新川」と「運河」の表記をたどっていただければみることができるでしょう。新川・運河とくればさらにその直線的な流路をみれば、人工的に開削されたものとすぐに判断がつきます。では、それ以前はというと、1916年の地図では運河の先は点線になっており、小樽との境界線をつくりつつその点線をたどると50Mほどでというように表記され、現在の河口付近まで流れています。実はこれが開拓初期の星置川の流路なのです。このころの清川の河口付近の浜をオタネ浜といい小樽内とよばれた集落もあったのこと。それ以前は江戸期の松前藩によってここに小樽内場所を設け道央圏の拠点として存在していたとのこと。

次に、対岸に見える樋門から流れ出すと手前の樋門から流れ出す

この両河川とも、1916年の地図でもわかるとおり、銭函市街地から手稲を経由し前田を経由し石狩の花畔の(現・)まで貫通する一大運河の銭函・花畔間運河だったのです。この運河は鉄道が敷設された1916年の地図でもしっかりとそのしるしをつけています。1936年ころにはこの銭函・花畔間運河と新川を中心に、銭函に港を、現在の札幌新道と新川が交わる地点に札幌市街地への物資拠点を、花畔地区に石狩川の舟運を利用した拠点をといった、小樽・札幌・石狩を結ぶ一大運河計画もあったそうです、その後第2次世界大戦後しばらくしてもその舟運の要として重要性を保持していており、この銭函・花畔間運河を改造した運河計画ももちあがったほどです。その後陸運の発展とともにその計画はついえたようですが、現在のこの銭函・花畔運河の北部岸以降をみてみると、都市化にはいたらず様々な物流の拠点が点在しているのはそのころの計画の名残なのでしょうか。まぁ、砂丘地帯なので農作にあまり向かない地域であったのものその理由かもしれまんが、、、。ただこの一大運河計画、現在の国道337号線がその任を受け継いでしかも空路の千歳までその脈路をもって陸運の要となっていることを考えると、この一大運河計画まったく絵に描いたもちで終っているわけではなさそうですね。

ちなみ今昔MAPで確認をすると昭和51年の地図まではポンナイ川の表記はなく、平成9年の地図でやっとポンナイ川の表記となっていました。このポンナイという語感あきらかにアイヌ語由来なのですが、このような経緯からどうもこの川を地元のアイヌがポンナイとよんでいたようにはおもえません。第一に平成にはいってから星置地区にアイヌの集落があったとはおもえませんし、それにポン・ナイ(小さい・川/小さな沢)という言葉、アイヌと倭人が協業していたとしても明治30年には銭函・花畔運河が開通しており、多分それ以前から開削工事はおこなれていたので、それをポンナイと呼ぶにはいささか疑問が残る。唯一の可能性としては、ここに星置川が作った扇状地に湧く湧水がありそこからながれでる沢があり、それがポンナイとよばれており、その流れを利用したのが銭函からの運河であった。という推論なのだが、どうだろう。

いずれにせよ、このなにやらわびしいたたずまいのこの両河川に、こんな壮大な歴史妄想を語れるパワーが実はあったのでした。

撮影場所 北海道札幌市手稲区星置 星函橋
アプローチ難度 ★☆☆☆☆
景観 ★☆☆☆☆
撮影機材 Canon EOS KISS X2